葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)は豊臣秀吉の奥州仕置により領地を失った、葛西氏・大崎氏らの旧臣による反乱である。
葛西氏・大崎氏は陸奥国の中部(宮城県北部?岩手県南部)に勢力を持った豪族である。両氏は、1590(天正18)年の豊臣秀吉による奥州仕置の結果、小田原に参陣しなかった事を理由に、領地を没収された。
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1590(天正18)年10月、新領主として木村吉清・清久親子が来た。木村清久は名生城(大崎市古川大崎)、木村吉清は寺池城(登米市登米町)に拠点を置いた。
しかし、木村親子の統治が機能する前に、葛西氏・大崎氏らの旧臣が蜂起した。木村親子はそれぞれの居城を放棄し、1590(天正18)年11月24日佐沼城(登米市迫町佐沼)に立てこもった。
戦闘
伊達政宗・蒲生氏郷勢の進軍
一揆勢は46,000人、佐沼城内の木村勢はわずか200人あまりであったという。白河に滞陣していた浅野長政はこの知らせを得て、蒲生氏郷と伊達政宗に木村親子の救出を命じた。
蒲生氏郷は3,000?6,000の軍勢を率いて会津を出発。伊達政宗は10,000?15,000の軍勢を率いて米沢を出発した。氏郷と政宗は黒川(大和町)に置かれた政宗の陣において会談し、地勢や一揆側の城について情報確認を行った。
蒲生氏郷は北進して中新田城(加美町中新田)を落とし、翌日は高清水城(栗原市高清水)を攻略すると政宗に通知した。政宗は氏郷に使いを送り、陣中に不都合があり翌日の戦は延期してほしいと求めたが、氏郷は単独で高清水攻略は可能と判断して北進した。
しかし、中新田と高清水の間には旧大崎氏の拠点である名生城があり、氏郷らの軍勢は奇襲を受けた。氏郷は名生城を占領したものの疑心暗鬼の状態となり、城に立てこもった。
伊達政宗の陰謀
名生城に立てこもる蒲生氏郷の陣を、伊達政宗の臣の須田伯耆が密かに訪ねた。その後曾根四郎助が「政宗が一揆に与えた密書」を持参し、この一揆の背後に政宗の扇動が有ること、一揆と政宗が内通していることを暴露した。政宗の軍勢が撃っている鉄砲が空鉄砲であるとの知らせもあった。伊達政宗は蒲生氏郷が動かないため、単独で行動することになった。一揆勢は攻め落とされるか自散し、政宗は木村親子を救出し、蒲生氏郷の居る名生城へ送り届けた。蒲生氏郷は名生城にて年を越した。
伊達政宗陰謀説
伊達政宗陰謀説には様々な説がある。
蒲生氏郷が政宗を陥れようとした策略
須田伯耆の逆恨み
一揆首領達による宣伝工作
政宗による煽動
その中で一番有力なのが、実際に政宗本人による陰謀であったという説である。これは政宗の重臣伊達成実が遺した日記伊達成実日記(通称:亘理日記)の中に、この一揆に関する後年の憶書として、葛西大崎一揆に関する記述があり、その記述の中で「一揆達は騙された」「騙して、一揆参加者達を皆殺にした」と暗に政宗の陰謀だったと匂わせる記述があるからである。
また、『佐久間軍記』には政宗が氏郷を酒席に招き暗殺を図ったが失敗した話が記されている。[1]
大崎氏、葛西氏両氏は当時(政宗の小田原参陣時)、戦国大名としての体はほぼ成しておらず、伊達氏の与騎(半属国化)状態であり、独自に兵を小田原に派遣できる状態ではなく、また余目文書にも「奥州の仕置きは太閤殿下から、政宗が一任されている」と当時の政宗が一地域の有力大名から南奥州全域の旗頭として振舞っていた事が見てとれる記述がある。
これらを総合して、小田原仕置きで領土の大半を削られた政宗が、失地回復の手段としてこれらの旧領に対して煽動工作をかけ新領主を追落とす工作を、新領主の中で一番暗愚とされた木村親子を第一の標的として行ったのではないかという説である。
戦後処理
豊臣秀吉は、葛西大崎一揆の知らせを受けて、石田三成を派遣した。天正19(1591)年1月10日三成は相馬に到着、蒲生氏郷、木村吉清らと合流し引き上げた。
豊臣秀吉は伊達政宗に上洛して弁明するよう求めた。伊達政宗は上洛し、政宗が一揆を扇動し内通した証拠となっている「政宗が一揆に与えた密書」についてクビにした元祐筆が勝手に書いた物と断じ、本物の自分の書状は、鶺鴒(せきれい)の花押の目の部分に針で穴を開けていると主張した。
豊臣秀吉はこの主張を認めて、政宗を形式的には無罪としたが、政宗に一揆が起きた旧葛西・大崎領の十二郡を与えて国替とし、政宗の旧領六郡は没収して蒲生氏郷に与えた。形式的には政宗の領土は加増されたが、面目はつぶされた形となった。なお、一揆関係者は「恩賞を与える」とおびき出された所を、政宗の軍勢により殺害されたとの説がある。
1591(天正19)年9月23日旧葛西・大崎領の検地を行っていた徳川家康は岩手沢城を改修して政宗に引き渡し、政宗は岩出山城(大崎市岩出山)と改名して1601(慶長6)年仙台に移るまでの間居城とした。